トミーの読書感想とCFDのあれこれ

読んだ本のまとめやCFD技術関連のことを書きます。

Airbnbで民泊!バレンタインデー準備とホームパーティ


週末にAirbnbを利用して民泊に泊まった。マンションの一室が民泊として提供されていて、アメニティや寝具、食器等宿泊するのには十分な設備が用意されていた。

この日は先日開催した写真展のメンバーと集まって打ち上げホームパーティ。

近くの業務スーパーで大量に買いこんで宴会の準備をした。当然キッチンもあるので、冷凍のチャーハンとかポテトとかを簡単に調理して安く飲めるのはうれしい。店飲みとは違い、多少騒いでも気にしなくていいから気分も開放的だったし、写真展を通して仲が深まった仲間たちとの他愛もない会話が楽しくて、気が付いたらひとりでワインボトルを開けていた。

宴も終わり、精算。民泊の代金、食事、酒代合わせて一人当たり2700円。3000円弱で好きに騒げて飲めて泊まれてしまうということを実体験として得たことはとてもいい学びであった。”週末にエアビーで部屋借りて友人と集まってホームパーティ、いつでも寝落ちOK”はQOLが高まりまくるイベントとして、今後積極的に行っていきたい。
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この日部屋を借りた目的は打ち上げの他に、室内での撮影も兼ねていた。夜のパーティの前に昼間に室内で、来週に迫っているバレンタインをテーマにした写真を撮ろうと思っていた。そう、思ってはいたのである。

撮影でイメージしていたシーンは女子2、3人でチョコを作りながら和気あいあいとした雰囲気、女子同士の楽しげな雰囲気のシーン。その他に、便箋に想いをしたためる姿を撮りたいと考えていた。

カメラマン2人(自分と、友人男)、被写体3人で撮影していた。被写体の一人が、今日が初めて会う人ばかりだったこともあり若干孤立していたので輪に入ってもらえるよう、用意していたバレンタイン用のチョコやドーナッツを囲んで自分と被写体3人で話をしていた(話しながら女子の和気あいあいの雰囲気は撮れた)。気がつけばその被写体の方の帰宅時間が迫っていた。その被写体さんは遅れてきたこともありほとんどその子の写真を撮れていなかったのと残り時間が15分しかなかったことに焦り、とりあえずで撮影を再開した。とりあえず3人にソファーに座ってもらい、用意したチョコと大量のリボンを持たせた。

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バレンタインの準備をする姉妹。自分に甘い姉。

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全然撮れなかった。どう撮っていいのか何もわからず、固まってしまった。

その時友人男に言われたことが、悔しくて忘れられない。

「何を撮りたいかちゃんと決めてから撮らんとなんもいいもん撮れんで。」

その通りだし、そんなことは分かっているけど、お前に言われたくないって気持ちで、その場で露骨にへこんでしまった。とても悔しかった。

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どう撮っていいかわからず固まってしまったシーン

その後シーンを”便箋に想いをしたためる女子”に切り替えて何とか撮影を刊行し、被写体さんの帰宅予定時刻を5分ほどオーバーして撮影を終えた。

撮影後はしばらく茫然としてしまった。被写体さんをアパートの外まで見送って部屋に戻って、まだあと2人被写体さんはいるけどもう撮る気にはなれなかった。

何より、目に見えてへこんでしまったことで作り上げた楽しい雰囲気が壊れてしまい、被写体の子(まだ10代の子)にまで心配させ気をつかわせてしまったのと、帰り時間が迫っているにも関わらず被写体の一人を引き留めて付きあってもらったことが頭が上がらない。多分そんなことは友人男は気が付いていない。俺が彼の言動で露骨にへこんでしまった。という目の前の事象しか見えていない。その後の被写体さん達の自分への気づかいや動きは分かっていないと思う。そんな風な彼(自分に似ている論理的思考至上主義者)に”何を撮りたいか”を説かれて本当に悔しいと思った。あなたは表面的な事象しか見えていなくて僕の考えてることよりも浅い、手前のとこにしかいないのに、、、と否定することでしか自尊心を保てなかった。

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このところ写真を撮るうえで軸としている考えは、そのシーンにどんな想いが乗っかているか、ということだ。見た目にかっこいいヴィヴィッドなインパクトのある写真よりも、被写体の考えや背景、これまでのストーリ、その行動をするに至った気持ちの経緯を描写したいと考えている。写真展を行った時期あたりから、誰かに響く写真を撮りたりと考えるようになり自分の写真について考えたときに、自分の今まで撮ってきた写真には誰かが共感できるような”想い”が一切描かれていなかったと感じてから、そういったものを大切にするようになった。写真としてそれを映すように心がけるというよりは、自分や周りの人達がそういう想いを大切にする人であるようにしたいと思っている。そうすることで、目の前にある些細な事象に含まれているストーリーを感じ取れるようになるかなと思っている。所謂温もりのようのものを感じながら過ごし、写真観を養いたい。

そう考えるようになってから、写真に写るものは自己の感性そのものだと思うようになった。目の前にあるもの、景色が琴線に触れるからシャッターを切っている。当たり前のことだけれど、気が付いていなかったこと。

写真を始めたと同時に、カメラ仲間とのコミュニケーションや誰かの写真を見る機会は専らinstagram等のSNSだった。SNSでの交流は楽しいけれど、instagramに流れてくる綺麗な写真を受動的に受け取っていくことで、こういう写真が所謂”映え”でかっこいい写真なんだよ、と刷り込まれて今日までの自分の写真観が築かれたといって過言ではない。SNS上でもてはやされる綺麗な写真をいつも追い求めていた。

でも、写真で大切なことはそうではないと、自分で考えてたどり着けた。自分は感受性・情動的であることを隠して排除して、論理的思考こそ至高という気持ちで生きているので写真を通して、右脳的な普段とは違う頭の使い方をするのは、脳のストレッチをしているような感覚になる。難しくて、でも、楽しい。

形とか、キーとなる小道具・アイテムで目に見える形で描ける写真からは脱却する。写真に写る人の思い描いている心情に耳を傾け妄想を膨らまし、捉え描いていければなと思っている。

この日の悔しかった気持ちを忘れないで、養った写真観で雰囲気とストーリーを撮っていく。

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文字を書く手、に込められたストーリーを写していきたい